ルアン
01 Sep
01Sep

今日は月曜日、一戸祭りの翌日です。仕事のあと、祭りの最後の香り、最後に残っている気配を探しに街へ出ました。けれど、何も見つからず、悲しくなりました。

再び、街は空っぽになり、車だけが行き交っています。再び、週末には色彩や香り、笑顔に満ちて開かれていた家々が、色の外壁と閉ざされた雨戸へと戻っていました。

もし、道端を歩く最後のカマキリや毛虫に尋ねたとしても、この3日間にここで喜びと賑わいがあったことを、誰も証言できないでしょう。色彩、音楽、踊り、命で満ちていたものは昨日までに片づけられ、跡形もなく消えてしまいました。

それが痛いのです。祭りは、満開の桜よりも早く消えてしまったから。桜はわずか一週間ほどしか咲かないけれど、その花びらは三日間ほど地面に残り、追いかけることができるのに。

そして、それは桜の花よりも早く消えてしまったことが胸を痛めます。桜は一週間ほどしか咲きませんが、散ったあとも3日ほどは白い花びらを追いかけることができるのに。

それでも、夜の七時半になると、まだ耳には笛の音が残っています。まるでどこか近くで、まだ太鼓や笛を奏でている人々がいるかのように。町が隠してしまったものを、身体はまだ覚えているのです。

なぜ一戸の人々は、一年で最も大きな出来事のひとつをあれほど素早く片付け、終わらせることができるのか、ルアンには理解しがたいのです。おそらく、それはルアンがコロンビア人だからでしょう。ラテンアメリカの郷愁は、ルアンたちに一度でも幸せを与えてくれたものを、そう簡単に手放すことを許してくれません。出会いも、視線も、言葉も、記憶も。

だからこそ、3月になってもクリスマスの灯りがまだ光り続け、誕生日の飾りが置き去りにされ、12月になってもハロウィンの痕跡が残っているのです。まるで良いものを手放すことを拒んでいるかのように。

一方で日本では、四季が人生のリズムを深く刻み、すべてが正確な秩序のもとで流れていきます。彼らは四季を通して、時を止められないこと、そして美しいものは本質的に儚いことを知っているのです。

そのことはカマキリたちも教えてくれます。小さな身体で世界に立ち向かうその姿に、ルアンは自分を重ねます。言葉を十分に持たずにここへ来た私もまた、それでも生きることに挑み、所属しようとし、限界や小ささを抱えながらも前へ進み続けているのです。

そして店先に過去の絵や写真が飾られているように、ルアンもこの祭りで感じたものを、自分の記憶や写真や映像に残したいと思います。なぜなら、思ったほど参加できなかったけど、ここに住み始めて以来初めて、ルアンは何かに属していると感じたからです。一戸に属していると、そして生まれた場所から13,730キロも離れたこの町に属していると。

ルアンの努力が、ようやく「ここにいることは正しい」と確信させてくれました。ルアンの使命や能力が、一戸や日本にとって本当に価値のあるものになれると信じられるようになったのです。たとえ四季や時の流れが、季節ごとに、温度ごとに、少しずつ喜びを奪っていったとしても。

記憶を持たない儚さは、影となって消えていく。

そしてその影の中で、唯一の証人は悪魔なのです。

Comments
* The email will not be published on the website.
I BUILT MY SITE FOR FREE USING