19 Jun
19Jun

一戸町神楽と隠された神社たち

📝 免責事項
この投稿は私個人の経験をもとに書いており、神道やその儀式について学術的に説明するものではありません。日本の地方に暮らす外国人としての、率直な体験と理解の試みです。

🌿 神社のささやき

一戸町に来てから、思いがけない精神的な次元に触れるようになりました。日本では、どこに行っても—町を歩いていても、自転車に乗っていても、買い物に行く途中でも—木々の間や丘の裏、道端などに小さな神社を見つけることがよくあります。扉が閉じられ、苔に覆われたまるで忘れられたような神社もありますが、不思議とすべてに命と霊性が宿っていると感じます。そこに立つと自然と足が止まり、呼吸が静かになり、心の中のテンポもゆっくりになります。

外国人として、参拝の基本的なマナー(中央を歩かない、できるだけ丁寧にふるまう)などは学びましたが、これらの神社が日本人の生活の中で、特に地方においてどんな意味を持っているのかは、今も学び続けています。多くの神社には電灯も看板も人混みもありません。でも確かに生きていて、誰かが守り続けているからこそ存在しているのです。


🥁 神々への舞:神楽

この精神性をもっと理解したくて、また文化的な催しにも触れたくて、一戸町で行われた神楽の公演に参加しました。神楽とは、神道の伝統的な神聖な舞で、感謝や祝福、浄化の意味を込めて神々に捧げられるものです。

それは大地や季節、そして地域社会と深く結びついた生きた信仰の表現です。会場では、力強い太鼓の音とともに、仮面をつけた人々が儀式的な衣装を纏い、象徴的なリズムの舞を披露していました。

現代的な場所での開催であっても、その場には古代のエネルギーが確かに宿っていました。


🧨 ラテンアメリカの信仰の叫び

ここ日本では、伝統は懐かしさではなく、神々や自然、そして自分自身との深い繋がりです。信仰は決して何かを強制するものではありません。追いかけてくる教義も、見張る義務もありません。あるのは道、仕草、象徴… でも、裁きはないのです。ここでの宗教は叫びません、ささやくのです。

そんな体験をしていた矢先、今週ふと母国で行われたデモの動画を目にしました。ボゴタで行われた「沈黙の行進」というイベントで、カトリック系の超保守派グループによって主催されたものでした。知人たちがその参加者にインタビューしたのですが、結果は恐ろしくも見慣れたものでした、排他的で暴力的な発言の数々、それが「信仰」という名のもとに正当化されていたのです。

→ https://www.instagram.com/reel/DLBfi_oNWbP/?utm_source=ig_web_copy_link&igsh=MzRlODBiNWFlZA==

そのコントラストに胸が痛みました。ラテンアメリカの多くの地域では、宗教が支配や分断、暴力を正当化するための道具として使われてきた歴史があります。霊性は、権力の道具にされてしまったことが何度もありました。それに比べて、日本は本当に違うと感じます。ここでの宗教は、ルールの集まりというよりも、自由に歩ける開かれた道のようです。

ルアンはもともと信仰心の強い人間ではありません。でも日本では、これまでに感じたことのない「静けさ」と「自由」を感じています。神社を訪れても、場違いだと感じたことはありません。どう祈るか、何を言うか、何を信じるかは求められません。ただ、「そこにいること」が大切にされている気がします。

そしてそれは、ルアンにとって本当に大きな意味を持っています。


📷 写真から学ぶこと

この神社や神楽を写真プロジェクトの一環として記録する中で、ルアンは視覚以上の何かを学びました。一戸町での霊性は、大きな神殿や大勢の前での儀式がなくても確かに存在しているのです。それは、静かな道を歩き、鈴を鳴らし、目を閉じて、心にある言葉をそっと口にすること——どんな言葉でも構わない——そうした日常の中に宿っているのです。

まだまだ学ぶことはたくさんあります。でも、訪れた一つひとつの神社、夜に響いた太鼓の音、そして撮った一枚一枚の写真が、ルアンを少しずつこの土地の「見えない心」に近づけてくれているような気がします。

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